西郷地区について
西郷地区は、登米市南方町の西部に位置し、狼掛区、畑岡区、柳沢区、沼崎区、一ノ曲区、苔上区、平貝区、須崎区の8区で構成されています。人口は、2,320人(男性1,184人、女性1,136人)、世帯数は707戸(令和2年10月1日現在)です。
本地区には平貝清水公園に湧き水があり、平成2年に南方町(現登米市)文化財として指定されました。南方町には昔、七つの清水と八つの沢があり「七清水八沢」と語り継がれてきましたが、その清水も開発等によって消滅し、現存するのは平貝清水の1つとなりました。穏やかに流れるその清水は、水量の変化も少なく、誰でも触れることができるため、長く地域住民に親しまれています。
地区の主な産業は農業であり、稲作、畜産(繁殖牛、肥育牛)、園芸(野菜、果樹)などの複合経営が行われています。しかし、近年は農業人口の減少に加え、少子高齢化も進行し、地域の大きな課題となっています。将来的にも、地域コミュニティが成り立ちにくくなるのではと懸念されるところです。特に、西郷駐在所や西郷幼稚園が廃止された影響は大きく、さらに地域の中心である西郷小学校も統合が検討されています。そうした中、ますます地域住民の絆や繋がりが必要とされています。
西郷地区コミュニティ推進協議会
西郷地区コミュニティ推進協議会は、南方総合運動場の一角に建てられた市内で一番新しい公民館である西郷公民館(平成22年竣工)を拠点に、地域づくり事業を推進しています。「みんなが主役 心かよい合う にしごう」をスローガンに、地域交流・ふれあいを高める「生涯学習部」、健康・高齢者支援の「健康づくり部」、防災・減災、交通安全をテーマにした「安全・安心部」、花いっぱい運動や地域資源活用の「環境美化部」の4部会で構成されています。高齢者対象の西郷南寿大学や児童対象の英語教室、伝統文化継承を目的に、西郷小学校3年生以上を対象とした神楽教室の社会教育事業も行っています。
これまでの歩み
- 昭和48年3月
- 県のモデルコミュニティ地区として指定を受ける
- 昭和49年3月
- 農村総合整備モデル事業が11億4千万円で採択
- 昭和49年11月
- 県指定のコミュティ事業の中心的役割を果たす町総合運動場の用地造成事業を自衛隊部外工事として着手
- 昭和50年9月
- 自衛隊による総合運動場の用地造成工事が完了
- 昭和53年2月
- 総合運動場内に農村勤労福祉センターが完成
- 昭和53年6月
- 総合運動場内に就業改善センターが完成
- 昭和53年12月
- 総合運動場内に町民陸上競技場が完成
- 昭和54年3月
- 東郷・西郷分館が独立公民館として発足、町内3公民館体制となる
- 昭和58年 2月
- 西郷地区コミュニティ推進協議会設立記念大会の開催
- 平成22年3月
- 西郷公民館(南方就業改善センター)竣工
- 平成22年9月
- 南方コミュニティ運営協議会発足
- 平成23年4月
- 西郷公民館(南方就業改善センター)の指定管理者に指定
- 平成27年4月
- 第1次西郷地区地域づくり計画(5か年計画)
- 平成28年4月
- 西郷公民館(南方就業改善センター)の指定管理者に指定
- 令和2年4月
- 第2次西郷地区地域づくり計画(5か年計画)
西郷地区行政区名の由来
-
前九年の役のこと、安部頼時征伐のためこの地まで進んで来た源義家軍のー隊は、日没のため夜営をした。さて夜になると気味悪い遠吠えと共におびただしい狼の大軍に囲まれてしまった。この狼の群がしたたかな奴らで、追ってもおどしても逃げも去りもしない。敵前なので火を焚くわけにもいかず、隙をみせると牙をむいて跳びかかって来る。その眼の恐しいこと。蒼く輝いて人魂のようだ。刀で斬りつけると血の匂いに狂って猛りたつ始末で、一匹ニ匹たおしても恐れ入るような連中ではなかった。 とうとう明け方近くまで悪戦苦闘して何の得にもならず怪我人が大勢でた。狼軍は明るくなる前に何処ともなく消えうせた。 後に残された狼の死体は木の股に掛けならべて全軍にその恐しさを知らせた。それからこの地は狼掛といわれるようになった。狼は蝦夷より始末が悪いと思った。
-
田村麻呂将軍が大岳丸征伐の時のことだ。本隊は迫川沿いに進めて、東の方から西に向って大岳山に攻め寄せることにした。ただ攻めたのでは逃げられてしまうので、一隊を西郷辺りに伏兵として先廻りさせておきたい。 中津山の高みから眺めると、西郷はほんの一走りの近さに見えた。だけどその間には干貫谷地があって、その中を迫川がくねっているのが少し気にかかったが、軽装の歩兵を使えば何とかなる。あの川さえ渡れば成功だと思った。 そこで選ばれたー隊は道もない谷地へと踏み込んだ。背丈を超える葦や萱を押し分け掻き分け進むうちに方向が全くわからなくなった。川を越えても又前方に川が現れ、何度渡ったのか覚えがない。そのうち日は暮れかかって途方にくれてしまった。とその時、カラスの大群が飛んでいくのが目にはいった。山のねぐらに帰るところに違いないと思ったから、その後について行ったら、ぞうさなく谷地を抜け出ることが出来た。 たどり着いた岡の上に旗を立て後に続く人達の目印とした。それからこの場所は旗岡と呼ぶようになったそうだ。 やがて大岳丸は亡び土着の人々も王化に馴れて農耕に励んだので田や畑が増えて旗岡は畠岡となり今は畑岡となった。
-
柳沢区は、角欠、間内、柳沢の三つの集落がまとまったもので氏神様はそれぞれ別の神様を祀っている。角欠は秋葉権現、間内は新山権現、柳沢は沼崎区と一緒になって、長者原にある石上神社を氏神としている。 角欠には葛西の頃「七つ館」という館があったが、その館主が氏の氏神として、或いは館の守護神として秋葉神社を勧請したものと思われる。 間内の新山権現には樹齢三百年を超す松の大木があり地面を十メートルも這っていたので、「臥龍の松」といわれたが現在はなくなっている。 又この権現には寛政十戊午年八月十七日と刻まれた鰐口が向拝の上に掛けられている。 柳沢の奥の方には溜池がいくつもあって、中の口溜池のほとりには、槌棒程の太さの大蛇「中の口太郎」が巣喰っているといわれた。
-
沼崎区は蕪栗沼に突出した台地で縄文時代人が住んだ竪穴式住居趾があり、古くから人が住みついた所である。近世になっては八嶋家という長者が居住した。 沼崎は「ぬまさき」と清音で発音され、「ぬまざき」とは決していわれない。 それは、同じ栗原郡内に畑岡村沼崎があって、藩では年貢の上納や文章の下達に間違いが生じて不都合であったので西郷村沼崎は「ぬまさき」畑岡村の沼崎は「ぬまざき」と決めたのだそうだ。
-
江戸時代から昭和の初期まで、萱、葦等を産する谷地で迫川や小山田川の遊水地帯であった。 昭和九年から同十二年の間に太田秋之助氏等が開拓開墾して現在は美田となった。 この谷地を迫川は蛇行をくり返して流れ、十曲八巻といわれたが、今、これを数える人はいない。 一ノ曲は新川の最初の曲りで、各曲りにはそれぞれ呼び名がついていたが、河川の改修で地形が変わり、曲りもなくなり名前も消えてしまった。 開墾完了後は入植居住者の数も増え集落が形成され、俗称で太田開墾、福原開墾と呼んでいたのを統合して、以前の呼び名「ーノ曲」を使用することとし、現在の行政区名となっている。
-
浅野清雄氏の門口の東側に三坪程の池がある。古文書に語られるところでは、昔この池には大きな九穴の貝がいたそうだ。 この貝は高いところを崩し低いところを埋めて平らにするくせがあったので誰いうことなく平貝と呼ぶようになった。この貝はそのうち伊勢の海へ飛ぴ去ってしまったが、今でも池の底には貝殻の跡がはっきりと残っているそうだ。
-
苔野谷地上、下の部落は、元禄の頃には既に集落が出来ていたと思われるが、その頃は湿地帯が多く柳が繁茂し、地には厚く苔が覆っていたものと想像される。だから苔野谷地の名がついたという。 地下0.5~1メートルのところには「もくれ」と呼ぶ層が拡がって沖積期に入ってこのかた、葦・萱に蔽われた原野だったことが判る。又、野生の葉菜が自生して、昔はこれを常食したという。なんでも、「弘法大根」とかいったそうだ。
-
「崎」と呼ばれる所は陸地が海や湖に突き出た突端をいうので、「須」は中洲などというように砂地の意味であろう。南方町がかつて低地は一面に水に覆われ、須崎山が半島状に突き出て、その先に青島が浮んでいた。そんな地形を須崎という地名は示しているようだ。 須崎の中央の辺りに羽山権現が集落の氏神として鎮座している。 この神社の別当は代々遠藤栄一氏の家で受け継いで来たが、その先祖は慶長八年大阪落城の時の落武者で三人兄弟であった。一番目は女で遠藤栄一氏、二番目は東内といい遠藤正義氏、三番目は佐々木佐太男氏の先祖である。須崎部落はこの三軒から始まったといわれる。